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群馬のテニスといえば清水善造、佐藤次郎!そして山川巌!

こんにちは。

テニスの王子様が好きな筆者です。

私の記憶によると、テニスの王子様は最初はテニス漫画だったと思うのです。

コートに立てた缶にサーブを当ててすごい!って言ってるような感じの漫画だった気がします。

ですが最近は、能力バトル漫画なのではないかと思えてきます。

最近というか途中からですかね。

分身が出てきたあたりあから能力バトル漫画の片りんが見えてきているような気がします。

ということで今回は、群馬県のテニスに関わる情報を調べてまとめてみました。

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春の叙勲で旭日双光章を元群馬県テニス協会長の山川巌が受章

群馬県のテニスで有名なのは、清水善造さんと佐藤次郎さんだと思います。

そして今回山川巌さんがそこに加わることになるでしょう。

なんと春の叙勲で旭日双光章を山川巌さんが受章しました。

春の叙勲とは?

叙勲(じょくん)とは、勲章を授けること。

国家または社会に対する功労者を対象に、国が旭日章または瑞宝章のいずれかを毎年春と秋に授与すること。栄典のひとつ。

叙勲のうち、「旭日章(きょくじつしょう)」は顕著な功績を上げた人、「瑞宝章(ずいほうしょう)」は公共的業務に長年従事してきた人が対象となる。

それぞれ、大綬章・重光章・中綬章・小綬章・双光章・単光章と6段階に区分されている。

特に、功績が大きいと認められるときには、最高位である大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)などが贈られる。

山川巌とは?

山川巌さんは、元群馬県のテニス協会の会長です。

昭和36年には高崎ローンテニスクラブを結成。

翌37年に誕生した県テニス協会に加盟した。

協会では常任理事や副会長などの要職を歴任した。

「テニスの普及と技術のレベルアップを大命題に支部制をつくったり、高校を訪れては硬式クラブを結成してもらうよう働きかけたりした」

なんと81歳の現在もテニスの大会に出場したりしている現役のテニスプレーヤーなんだそうです。

群馬県のテニスは山川巌さんのおかげで普及した部分も大きそうですね。

春の叙勲を受賞した山川巌のコメント

「考えてもいなかった。本当に光栄なことで皆さんに感謝」。日焼けした顔をほころばせた。

中学時代からテニスを始めた。「入部を考えた野球部の募集が終わっていて、代わりに目についたのがテニス部だった」。全くの素人だったが、「よく打てるようになったと顧問の先生がほめてくれて。楽しい部活だった。あの3年間があったからこそテニスが続けられた」と振り返る。

高校卒業時、「何としても硬式テニスがやりたい」という気持ちが抑えられなくなった。そこには「群馬には清水善造、佐藤次郎がいたではないか」との強い思いがあった。

「当時は硬式をやりたいと言っても相手にされなかった。独学で学び壁に向かってボールを打ち続けた」

コート整備も行政に訴え続けてきた。それだけに、高崎市が浜川運動公園(同市)に建設を進めている21面の「清水善造メモリアルコート」に対しては「市民が気軽にプレーできる場にもなる。大変ありがたい」と目を細める。

「腕と一体となったラケットから力が伝わったボールがニコニコしながら相手コートへ入っていく。そんな生きたボールを返せると何とも言えないほど楽しい」と声を弾ませる。

「老若男女誰もができるのがテニスという生涯スポーツ。だからテニスはすばらしい」と力を込めた。

山川巌さんも清水善造さんや佐藤次郎さんに影響を受けていたみたいですね。

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清水善造とは?

清水 善造(しみず ぜんぞう)とは、群馬県群馬郡箕郷村(現高崎市)出身の男子テニス選手。

日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。

全米選手権でもベスト8入りしており、次に全米ベスト8進出を果たす日本人男子は92年後の錦織圭である。

清水善造のプロフィール

  • 名前:清水善造(しみずぜんぞう)
  • 愛称:ミスター・シミー
  • 出身地:群馬県群馬郡箕郷町(現高崎市)
  • 生年月日:1891年3月25日
  • 没年月日:1977年4月12日(86歳没)
  • 死没地:大阪府
  • 身長:163㎝
  • 体重:53kg(現役時代)
  • 利き手:右

清水は旧制高崎中学校時代に軟式テニスと出会い、東京高等商業学校時代に庭球部に入部、東京高商の最上級生時代には主将を務めるなど選手として活動した後、三井物産カルカッタ駐在員時代に硬式テニスに初めて接して、本格的に硬式テニス選手としてプレーするようになる。

なお、日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年(明治11年)であったが、ボールの製造に必要なゴムが輸入困難であったことから、日本独自の軟球を用いたソフトテニス(軟式テニス)が編み出される。

そのため、通常は「テニス」と呼ばれるスポーツに“硬式”テニスという呼称があるのも日本独特の呼び方である。清水は日本における硬式テニスの開拓者として活動した。

清水はカルカッタ時代にベンガル州選手権大会で1915年から1919年まで5年連続優勝、商用で赴いたブエノスアイレス(アルゼンチン)で出場した南米選手権でも優勝するなど実績を積み重ねる。

1920年(大正9年)には長期休暇を利用してイギリスに渡航、イギリス国内の試合に出場しながら6月のウィンブルドン選手権大会に臨む。

そのウインブルドン選手権で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで勝ち進んだ。

当時はテニス・トーナメントの方式も現在とは大きく異なり、前年優勝者は無条件で決勝に行き、そこで1回戦から勝ち上がる選手(チャレンジ・ラウンドの優勝者)と決勝戦を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式を採用していた。

そのチャレンジ・ラウンド決勝戦で、清水は当時の世界ナンバーワン選手であったビル・チルデン(アメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13 の激戦で敗れたが、この大活躍で硬式テニスを日本に紹介した。

清水善造さん凄い人ですね!

群馬の有名プレイヤーというより日本でも凄いテニスプレイヤーじゃないですか。

日本に硬式テニスを広めた第一人者みたいな感じですね。

佐藤次郎とは?

佐藤次郎(さとうじろう)とは、日本の男子テニス選手。

1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。

現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。

佐藤次郎さんのプロフィール

  • 名前:佐藤次郎(さとうじろう)
  • 愛称:ブルドッグ佐藤
  • 出身地:群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)
  • 生年月日:1908年1月5日
  • 没年月日:1934年4月5日(26歳没)
  • 死没地:マラッカ海峡
  • 利き手:右

1934年(昭和9年)2月、佐藤は「テニスファン」記者の岡田早苗との婚約を発表した。

この年の3月20日、デビスカップの日本チームの主将として、箱根丸でヨーロッパ遠征に出発するが、その帰途にあった4月5日にマラッカ海峡にて投身自殺を図った。

26歳没。箱根丸の佐藤の船室には、シンガポールに着く前日に書かれた、用紙3枚の遺書が残されていた。

日本テニス協会の前身である当時の日本庭球協会の堀田正恒会長に宛てた内容で、久保圭之助が作成したとみられる資料の中から2016年に発見。

慢性の胃腸病を患い、集中できず国の期待に応えることができない精神的苦痛を「とてもテニスが出来ません」と明かし、日本代表を引率した自身を「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分かりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上のことは出来ません。生前お世話様になった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されんことを請う。では、さよなら」と結んでいる。

佐藤次郎選手も凄い方ですね。

日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者ということなので、佐藤次郎選手も群馬というよりも日本でトッププレイヤーのテニス選手ですね。

26歳で若くして亡くなったようです。

群馬のテニスといえば清水善造、佐藤次郎!そして山川巌!まとめ

ポイント

  • 清水善造選手は、日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出。
  • 佐藤次郎選手は、日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者。
  • 山川巌さんは、元群馬県テニス協会会長。春の叙勲で旭日双光章を受章。

以上、群馬のテニスといえば清水善造、佐藤次郎!そして山川巌!についてまとめました。

今回のニュースから群馬県のテニスがもっと盛り上がることを期待したいです!

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